2019年2月16日13時から17日13時まで、カト看黙想会が行われました。
場所は、紅梅・白梅満開の佐世保、天神町のお告げの修道会、祈り家です。
参加者は20名。3回の食事があり、お告げの姉妹達による美味しいご馳走でした。
指導司祭は、大分教区の山下敦司祭。
聖書特に新約聖書を深く理解され、カトリック生活に毎月、聖書に関する連載をされ、神学校の聖書学の講師もされています。
黙想会ですので、沈黙の時もありましたが、緊張しないようにと、身体を使ったレクもあり、食事は交わりの時として、会話し、席は、毎回クジ引きで決め座り和気藹々。
ミサ閉祭時に歌う、「日本カトリック看護協会会歌」の練習には、天神教会平本司祭から直接指導、「これは・・どうなる・・」と、指導者を困らせた歌声でしたか、本番ミサ閉祭では、少なくとも皆揃って神様に賛美の歌を捧げました。
平本司祭にも感謝です。
山下司祭の講話は2回でした。
ルカ10・38-42 マルタとマリア
「みなは、歩き続け、そしてある村にお入りになると、マルタという女が、自分の家にイエスを迎え入れた。彼女にマリアという姉妹があったが、マリアはイエスの足元に座って、おことばを聞いていた。もてなしに忙殺されていたマルタは、やがてみもとに近寄って「主よ、私の姉妹が、私1人にもてなしさせるのを何とも思いになりませんか。この人に、私を助けるように命じてください」と言った。
すると主は、「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを心配して心をつかっている。しかし必要なことは少ない。いやむしろただ1つである。マリアは、自分から奪われることのない、よりよいほうを選んだ」とお答えになった。
この聖書の解釈は、活動マルタ派、観想マリア派、等、教会の歴史の中で強調点が異なる事もあった。
当時 ユダヤでは、師の元に坐り、教えを聞くのは、男性の特権であった。マリアは、当時としては、珍しい事をしている。しかし、主は、女性であるマリアに対して足元に座る事を認めておられた。
マルタが行っていた、「もとなし」という行為の言葉は、主イエスが仕えるために来た。という言葉と同じであり、イエスも、もてなし、仕える という 事を行っている。
しかし、ここで、マルタは、自分だけ 働いている。もてなしをさせている。マリアは、しない。という 思いに囚われ、相手を裁き、不平、不満を現している。
これと同じ様な、裁きの言葉は、ルカ15・11-32の放蕩息子の兄の言葉です。
「私は、何年も仕え、背いた事はない・・・」
ここでは、弟は、ダメ、兄・自分は、良くしてきた。事を認めてほしい思い。そして、もしかしたら、多少怠けた事もあったかも知れない、など、あったとしても、自分の非は、見えなくなっている。
神様に対して、心が閉じる、距離があると、隣人、相手、兄弟も、見えなくなり、心閉じ、距離が出来る。
イエスは、マルタに対して、
「マルタ、マルタ 」と愛を込めて2回 マルタの名を呼ばれた。
新約聖書には、3人の人が、名前を2回呼ばれている。
最後の晩餐の後、シモン・ペトロの裏切りを予告し、立ち直ったあと、兄弟を力付けるように話された時、「シモン、シモン」ルカ・31
そして、教会の迫害者サウロの回心の時。「サウロ、サウロ」使徒行録9章
2回呼ぶと言う事は、特別愛を込めて その人を呼び、招いていると言う事。
神は、愛と救いのご計画を変えない。相手の自由を尊重する愛。
マルタのように、又 放蕩息子の兄のように、自分だけ働いている、自分は出来ている。他の人への思いやりがないという、魂の行き詰まり状態のある人々も多い。
イエスは、何度か、朝早く、人里離れた所へ祈っておられた。
祈り・御父との関わり、神からの力、愛を受け取る祈りと、神と共に働く事は、どちらも重要であり、両方のバランスが大切。
神様との関わりを持つひとつの方法として、感情の動きを祈りとする。喜怒哀楽をそのまま、神様に捧げる。その感情を神様と語る。
今回参加された方の中に、13年間教会に御無沙汰という方が、カト看に初参加。
この方は、赦しの秘跡も戴きました。
参加者皆それぞれ恵みを戴き、紅梅の香りに見送られ佐世保での黙想会を後にしました。
感謝の内に。
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